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尾形乾山の活躍と地方窯の勃興:江戸中期のやきもの文化成熟期(1691年〜1786年)
江戸時代中期にあたる1691年から1786年にかけての日本のやきもの史は、地域色豊かな窯元の創設ラッシュと、芸術性の追求が進んだ「文化の成熟期」です。肥前の磁器産業が継続的な発展を遂げる一方、京都では尾形乾山が新風を吹き込み、全国各地で独自の技術や様式を持つ窯が次々と誕生しました。
1. 京焼の隆盛と芸術的革新
この時期の文化の中心地・京都では、やきものの芸術性が一気に高まりました。
- 尾形乾山の活躍:1699年、尾形乾山が京都・鳴滝に窯を開き、京焼に革新的なデザインと芸術的センスを導入しました。1737年には陶工の心得を記した『陶工必用(江戸伝書)』を成し、彼の作風は後世に大きな影響を与えました。
- 京焼の多様な発展:乾山没後(1743年)、京都では亀亭焼や深草焼などが始まり、さらに清水六兵衛が六兵衛焼(1771年)を開始するなど、京焼の系譜が確立・発展しました。また、半七楽焼(1733年)や玉水焼など、多彩な楽焼も生まれました。
2. 地方窯の創設と多様化の深化
有田を中心とした磁器産地の継続的な発展に加え、全国の地方窯が藩の庇護や地域特有の需要に応じて、個性豊かな焼き物を生み出しました。
- 新たな磁器窯:肥前(佐賀)では、現川焼(1691年)や百貫山窯(1697年)といった新たな窯が相次いで開かれ、華麗な磁器の生産が継続されました。
- 地域を代表する窯の誕生:
- 伊予(愛媛)では梁瀬焼(1698年)や、有田の陶工を招いた砥部焼(1775年)が始まりました。
- 備前(岡山)では白備前(1713年)や大内焼(1716年)が、伊勢では万古焼(1737年)が、尾張では犬山焼(1751年)が誕生しました。
- その他、奈良焼(1730年頃)、出石焼(播磨、1761年)、永見焼(石見、1766年)、平佐焼・龍門司焼(薩摩)など、全国で窯業が盛んになりました。
- 御庭焼の普及:藩や幕府のお抱え窯である御庭焼(後楽園焼、阿波焼、綾焼など)も始まり、上流階級の多様な需要に応えました。
3. 技術の管理と社会背景
この時代には、陶磁器産業が藩の基幹産業としての地位を確固たるものにし、技術の管理が厳密化しました。
- 技術の秘匿と品質管理:有田の皿山では、1779年に代官の久米六兵衛によって、赤絵屋の秘伝流出防止のための家督相続定法が定められるなど、技術の伝承と品質管理が厳密に行われました。
- 社会的な危機と産業の持続:西南四道大飢饉(1733年)や天明の大飢饉(1786年)といった社会的な危機があったものの、やきもの産業は藩の保護政策のもとで持続し、地方経済と文化形成に寄与しました。
1691年から1786年の約一世紀は、陶磁器の産地の新旧交代が進み、芸術性と実用性の両面で、日本の陶磁器文化が幾層にも深まった重要な時期です。この時期の多様な製品群が、今日の日本陶磁器の豊かな多様性を形作る礎となりました。
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