お役立ちコラム
COLUMN
国家統制から六古窯の成立へ:奈良時代から室町時代における日本のやきもの史
日本のやきもの文化は、奈良時代以前の国家による管理体制を経て、平安・鎌倉・室町時代にかけて、地方の土や技術を活かした独自の発展を遂げました。特に中世には、「六古窯」の源流となる重要な窯が各地で興り、日本の陶磁史の骨格が形作られました。
1. 古代:国家統制と技術の礎
大化改新期には、土器はすでに重要な役割を担っていました。
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大化改新(646年):改新の詔により、地方から中央へ**「調(税)」として陶器を納める制度**が整えられ、土器が国家システムに組み込まれました。
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奈良時代(8世紀):
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行基(711年)が瓦や製陶技術を広めました。
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伊賀で丸柱焼(のちの伊賀焼)が始まる(天平宝字年間、757〜765年)。
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平安時代初期(10世紀):
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『延喜式』(905年)で御器調進の制が定められ、大和・美濃・備前など十国が陶器を納める役割を負いました。やきものは朝廷の祭祀や日常の食器として、国家管理の対象でした。
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2. 中世:灰釉の登場と古窯の誕生
社会が動乱(承平・天慶の乱など)を迎える中でも、窯業は地方に根づき、独自の技術革新が起きました。
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灰釉(かいゆう)の誕生(11世紀頃):猿投山西南麓(瀬戸焼の前史)で、焼締めに釉をかけた灰釉陶が盛んにつくられ、中世陶器の幕開けとなりました。
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渥美古窯(12世紀中頃)が活動を開始し、壺や瓶などの実用品を生産し、遠方にも流通させました。
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信楽焼(弘安年間、1278〜1288年)が近江で始まり、土味を活かした素朴な作風で発展しました。
3. 鎌倉〜室町時代:釉薬技術の定着と六古窯の成立
宋(中国)からの技術や文化の伝来が、日本のやきものに革命をもたらしました。
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瀬戸焼の起源(鎌倉時代):加藤四郎が宋から技術を学び、尾張・瀬戸で開窯し、**日本で初めて本格的な陶器(釉薬を用いたやきもの)**を焼いたと伝えられています。これは瀬戸窯業の始まりとなり、三代・加藤藤三郎(1293年)らによって発展が支えられました。
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茶陶文化の受容:
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瀬戸で天目釉(黒釉)の陶器が登場(1328年頃)、中国の宋・元の茶器文化を受容しました。
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伊賀で**「古伊賀」**が始まり(建武年間、1334〜1338年)、後の茶陶文化へとつながる重要な一歩となりました。
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無釉焼締めの伝統:**備前で伊部焼(備前焼)**が始まり(応永年間、1394〜1428年)、長く続く無釉焼締め陶の伝統を築きました。
室町時代の南北朝合一後、やきものは生産地ごとに多様化し、京では清閑寺に窯(宝徳年間、1449〜1452年)が築かれ、京焼の源流となりました。
この時代を通じて、日本のやきものは、単なる生活必需品や貢納品から脱却し、釉薬技術の定着や茶の湯文化との結びつきによって、日本文化を象徴する美の領域へと大きく成長を遂げたのです。



