お役立ちコラム
COLUMN
朝鮮陶工の技術導入と有田焼の誕生
1. 朝鮮陶工の渡来と西日本の窯業確立
戦乱を機に日本へ来た朝鮮陶工たちは、ろくろや登り窯の技術など、当時の日本にはない高い製陶技術をもたらしました。彼らの技術は、特に九州・西日本の各地で藩主の庇護を受け、新しい焼き物文化の基盤を築きました。
| 窯名(開始年) | 地域 | 主な陶工と特色 |
| 唐津焼(1598年〜) | 肥前(佐賀・長崎) | 多くの陶工が移り住み、日常使いの陶器として発展。日本の陶器に大きな影響を与えました。 |
| 高取焼(1600年) | 筑前(福岡) | 陶工八山により開窯。 |
| 上野焼(1602年) | 豊前(福岡) | 陶工尊楷により開窯されました。 |
| 萩焼(1603年) | 長門(山口) | 李勺光と李敬の兄弟が開窯。茶人たちに愛される、やわらかな作風が特徴です。 |
2. 日本独自の磁器、有田焼の誕生という偉業
日本の陶磁器史における最も重要な変革は、磁器の国内生産の成功です。これは、従来の陶器(焼き物)中心の文化を一変させました。
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磁器原料の発見(1616年):朝鮮から渡来した陶工、李参平が肥前・有田の泉山で白磁の原料となる陶石をついに発見。これにより、日本で初めて磁器の生産が成功し、後の有田焼の基礎が築かれました。
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色絵(赤絵)技術の確立(1621年):酒井田喜三右衛門(後の初代酒井田柿右衛門)が有田で白磁の焼成を始め、後に赤絵へと繋がる彩色技術を確立しました。
この磁器の誕生は、日本の焼き物界に革命をもたらしただけでなく、日本の陶磁器が海外へ輸出される契機ともなりました。
3. その他の地域の発展と多様化
この時期、西日本各地では、大名の庇護のもとで新たな窯が次々と開かれ、多様な発展を遂げました。
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薩摩:島津義弘の帰国に伴い、帖佐焼が廃れ、加治木に御里窯が生まれ、1620年には竪野窯が開窯しました。
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肥後(熊本):上野焼を始めた尊楷が1632年に八代焼を始め、同じく肥後で小代焼も作られるようになりました。
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伊賀焼:藤堂藩主の庇護のもと、伊賀焼が発展を遂げました。
わずか1598年から1641年までの約40年余りで、朝鮮陶工の技術導入、そして磁器という新たな素材の発見により、日本の焼き物は多様性と技術水準を飛躍的に高め、各地で独自の個性を磨いた名品が次々と生み出されていったのです。
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