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江戸後期陶芸界の胎動:技術革新と御庭焼が拓いた多様な展開(1787年〜1816年頃)

やきもの文化の軌跡 ~江戸時代後期~

 


江戸時代後期、天明から文化年間(1787年頃〜1816年頃)にかけての日本の陶芸界は、各地の藩が主導する動きと、個人の陶工による技術革新が相まって、かつてない多様な展開を見せました。この時代は、伝統的なやきものとは一線を画す「新製」の試みが各地で勃発し、日本の陶芸が近代へと歩み出す重要な過渡期でした。

 

1. 「御庭焼」と「新焼」のラッシュ:各地で開かれた窯

 

この時期の特徴の一つは、藩主が陶工を招いて窯を開かせる**「御庭焼」**の隆盛と、それに刺激された新たな窯の誕生です。

年代 焼物(場所) 概要と主な担い手
天明年間〜 松山焼(伊予) 伊予松山藩が瀬戸の陶工・瀬戸助を招き、御庭焼として開窯。
1788年 三田焼(摂津) 神田宗兵衛が創始。
1791年 古曽部焼(摂津) 五十嵐信平が遠州七窯の一つを再興
1793年 伯耆焼(伯耆) 松浦助六が「法勝寺焼」として開窯。
1806年 悪戸焼(津軽) 石岡林兵衛が始め、後に津軽藩の御用窯となる。
1810年 舞子焼(播磨) 三国久八が創始。

このほか、丹波の篠山焼(王子焼)や長崎の亀山焼(1804年)、近江の**音羽焼(1814年)**など、全国各地で多種多様な焼物が次々と誕生しました。

 

2. 陶芸界の潮流を変えた技術革新と挑戦者たち

 

伝統に新しい風を吹き込む、技術的な革新が起こったのもこの時代です。

  • 瀬戸の磁器生産の基礎:最も注目すべきは、瀬戸の陶工・加藤民吉の功績です。彼は有田での修行を終え、1807年に瀬戸に戻り、染付け白磁の製法を伝えました。この「新製焼」は、それまで陶器中心だった瀬戸に磁器生産を根付かせる決定的な一歩となりました。

  • 新素材への挑戦:常滑焼では、陶工の伊奈三郎が朱泥・白泥といった新しい素材と表現を考案しました。

  • 辺境の試み:探検家の近藤重蔵が、エトロフ島の土を使って茶碗を焼くという異色の挑戦(1798年)を行ったことも、この時代の自由な気風を象徴しています。

  • 藩主による華麗な御庭焼:薩摩藩主・島津斉宣は、白瓷に金襴の彩紋を施した白麻摩焼を焼かせるなど、藩主自らが高度な技術を追求しました。

 

3. 京焼の巨匠たちと茶人の影響力

 

文化の中心地、京都では、京焼の巨匠たちが活躍しましたが、この時期に相次いで世を去っています。

  • 名工たちの逝去:京焼を代表する陶工、初代清水六兵衛(1799年没)、初代高橋道八(1804年没)、そして京焼中興の祖とされる奥田頴川(1811年没)がこの時代に没しました。また、絵師としても名高い**四代乾山(酒井抱一)**も1814年に没しています。

  • 木米の活躍:一方、奥田頴川の弟子である青木木米は、1807年に金沢で春日山窯を開き、加賀の陶芸に新たな影響を与えました。

また、陶芸の需要を支える茶の湯の文化も重要でした。特に、松江藩主で大茶人として知られる**松平不昧(まつだいら・ふまい)の活動が特筆されます。彼は1811年に茶器の分類書『和漢茶入窯分』を刊行し、1816年には江戸大崎の下屋敷で「大崎御庭焼」**を始め、自ら茶器を焼かせるなど、陶芸の発展に深く関与しました。

この時代は、地方の窯から京焼の巨匠、そして茶人や藩主まで、あらゆる立場の人物が陶芸に情熱を注ぎ、日本のやきものがより芸術的・技術的に洗練されていく礎を築いた時期と言えるでしょう。

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